サブ・カルかカウンターか?

bearsmick2009-01-16

先日は、若いお坊さんといろんな話をしていたのですが、今夜は同級生すなわち同時代の空気を吸って生きてきた尾城君とあるぽ君、そして先日同様あるぽ君と一緒に来てくれた庭師の親方玉ちゃん(彼は僕たちより5歳したらしいですが、まぁほぼ同世代!?)と音楽や文学のことを肴に飲んで、盛り上がりました。
若いお坊さんとの会話の中では、サブ・アルチャーという言葉は出てきたのですが、僕としてはサブ・カルという概念は分かるものの、どうも納得がいかないことも多々あります。僕らが若かりし頃は、そのような文化はカウンター・カルチャーと呼ばれていて体制や主流に対する、あくまでも対抗としての文化であった訳です。それが、学生運動やヒッピー運動なども停滞・消滅して若者による新しい価値観による社会の創出が体制にそう打撃を与えないと思われるようになった時代になって、サブ・カルというように言われ始めたように思います。あくまでも主流に対する傍流という感じでサブ・カルというように使われているようで、時にはオタク的なニュアンスさえ付きまとうこともしばしばで、そこもまた残念な感覚です。
オヤジが酒を飲みながら、ああだこうだと昔話に花を咲かせていただけなんですが、これまた先日TVで放映された1969年の東大安田講堂の番組などを観ていても、なんだか違和感を覚える自分がいたりします。
実は、今夜の話題にサブ・カルやカウンター・カルチャーという括りは出てこなかったのですが、つい自分の中で考えてしまう訳でした。ロック自体がその大きな推進力を持ったモノだった訳で、若い頃、モロにその洗礼を受けた自分という存在もある訳で、結果現在の自分がいる訳です。
僕自身は、とても小さく薄情な人間だと自覚しているのですが、いつも何かしら目に見えない抑圧的なモノに対する心構えみたいなものは持っていようと思っています。そしてそれこそがロックの精神だともね。
というこで、今夜の話題にも上ったジェファーソン・エアプレインとフェアポート・コンヴェンションとの類似性/影響に敬意を表して、本日の一枚は、ジェファーソン・エアプレインのヴォランティアーズを。